私は30年以上前に学校を卒業すると、情報産業として今ではだれもが知っているリクルートに就職した。(まだ正式には日本リクルートセンターという名前であった。)当時はまだあまり世に知られた会社ではなく、多くの同期とともに、親の期待を裏切って入社した世代だ。親からは「大学まで出してやったのにお前はどうしてそんな名もない会社へゆくのか?」と言われた話を同期ともよく話したものだ。私は、情報産業で営業力を磨いてとっとと独立したいと起業に燃えていた頃だ。
ところが、4月1日の配属先の発表で、あにはからんや当時関連会社で環境開発(後のリクルートコスモス)に配属されることとなる。しかも配属先が経理部であった。これは私にとってはダブルパンチで、営業力をつけてとっとと起業するのだと勢いずいていた私ががっくりしたのは言うまでもない。「不動産の仕事をさせられるなんて!」正直騙されたと思った次第である。しかし、今この配属を思い返すに、私にとってはその後の人生において本当にラッキーな出会いのきっかけだったのだと思い返している。
さて、私はその後財務を担当することとなり、バブル時代を急成長するリクルートコスモスの資金調達の主力メンバーとして働かせていただいた。店頭公開企業としては初の大型転換社債発行など、面白い仕事に関わらせていただいたものだ。コスモスでの当時の仕事は本当に働きまくったという感覚だ。朝の7時から出社し、夜は明け方の3時、4時になることも珍しくなかった。土曜日はほぼ24時間寝ていたこともある。しかし、一度も今で言うブラック企業と思ったことはない。そんな時代だったし、ブラックを感じさせない自由な雰囲気があった。言ってみれば、いい会社だったのかもしれない。ところで、体もだいぶ過労を覚えてきたそんな頃、会社で「米国不動産調査団募集」の発表があった。
当時の不動産業界では多くの企業が米国などの海外へ進出しており、リクルートコスモスは後発組という感じであった。私は子供の頃から海外への憧れがあり、リクルート入社時にも「この会社の国際化に貢献したい」と息巻いていたくらいだ。当然、視察団に申し込みをするわけである。そして、運が良く調査団員に選んでいただけることになる。
ところがである。調査団に選ばれたのはなんと私ひとりだけであった。後から上司の西念さんに聞いたのだが、「仕入担当の人間を行かせると、きっとアメリカの不動産を買いまくってしまう。財務のおまえならあまり買わないだろう」というのが選抜の理由だったそうだ。拍子抜けした。ところで、調査団(調査員)はいつ出発するのだろう。どこへゆくべきなのか?どのくらいの期間行けるのだろうか?念のために募集先の人事部に相談した。するとこう言われた。「それはお前が決めて、お前が好きなように考えろ!行きたければ1年でも2年でも好きなだけ行ってくればいいんじゃないの?」リクルートグループは一事が万事こんな感じの会社であった。当然だが、会社は調査へのお膳立ては何もしてくれない。そこで、大手の外部建設会社から転職されてきた方を中心に片っ端から海外担当の方々を紹介してもらった。もちろん、銀行の海外担当者も。しばらくして、私は会社の先輩・同僚に見送られながら会社を後にする。まずはロサンゼルスへ向けて。
以下へ続く
第1章 安全な実物資産投資に米国を選択する理由
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